ヒトメボ

「学校給食歴史館」館長

大澤次夫

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とくに30代以上の人にとって、給食といえばコッペパン。現在では「毎回ご飯を出す」という学校が全国で2,000校以上あり米飯が定着しているようですが、当時はコッペパンばかり出されていた記憶が……。小学校給食にコッペパンが定着した理由について、埼玉県北本市にある『学校給食歴史館』の館長・大澤次夫さんに取材しました。

小学校給食はいつから始まったの?

日本の学校給食の起源は、明治22年(1889年)に山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で出されたものだとされています。

メニューはおにぎりと塩鮭、そして菜っ葉の漬物の3品。この給食は、貧困家庭の児童を対象に昼食が無償で提供されたものでした。

その後、同じように「給食」としてお昼ご飯を出す学校が増え始めます。大正12年(1923年)には、下の写真のようなメニューが出されていたそうです。

写真の給食は「ご飯」ですが、日本のパン文化は明治時代に広まり、大正時代にはすでに定着していましたから、パンを出す学校も少なからずあったそうです。

いつからコッペパンが出るようになったの?

給食は第二次世界大戦時には物資不足を理由に中断されます。戦後、再び給食が始まったのは昭和22年(1947年)。文部・厚生・農林の三省が定めた「学校給食実施の普及奨励について」(昭和21年通達)により、再開されました。

メニューは、写真のようにトマトシチューやミルク(脱脂粉乳)といった洋風のものでした。これは海外から脱脂粉乳やトマト缶が援助物資として送られてきて、それを元に給食を再開したからだといわれています。また、脱脂粉乳は栄養価が高いため、給食に適していたことも理由の一つです。

肝心のコッペパンですが、大澤館長によると「定着したのは1950年前後」。

援助物資の中に小麦が多くあった

GHQがパン職人を育てさせた

米が手に入らなかった

の3つの理由によるそうです。

当時、『LARA(ララ)』というアメリカのボランティア団体から大量の援助物資が届き、その援助物資を元に学校給食が再開される運びになったのですが、その中には小麦も大量に含まれていました。

また、日本の占領政策を実施したGHQは、日本にパン文化を定着させるためにパン職人の育成に力を入れ、終戦から数年で多くパン職人が育ったそうです。加えて、当時の日本では給食に出せるほどの大量の米を手に入れることは困難でした。

大澤館長によると、こうした要因が重なることで、終戦から数年後には給食にコッペパンが出されるようになったのだそうです。

コッペパンはなぜ定着したの?

戦後の食糧事情が理由で、給食にコッペパンが出されるようになったのですが、その後もコッペパンが出され続けます。ご飯が出されることもまれにあったそうですが、米飯の正式な導入が定められる1976年(昭和51年)までの給食では、ほぼコッペパンが提供されていました。

大澤館長によると、コッペパンが給食に定着した理由として、「設備の問題が大きかった」とのこと。もちろん、米よりも小麦の価格が安く手に入りやすかったことも要因ですが、それ以上に「米飯給食を提供するための設備導入の手間」が重視されたそうです。

学校で炊飯して提供する場合、大量に炊飯できる設備を新たに導入しないといけませんから、そのコストをどうするのかが問題になります。そこで悩むのなら「じゃあこのままパンでいいじゃないか」となりますよね。

このように、戦後の時代背景や小麦の価格の問題とともに、給食として提供するための炊飯設備コストがネックになったことも、給食にコッペパンが定着した理由なのです。

ちなみにコッペパンは日本独自の「和製洋語」で、海外では通じません。そして「コッペ」も、フランス語の「coupe」(切るという意味の単語)を由来とする説がるものの、語源は確かではないそうです。

コッペパンを見て小学校時代を思い出すなど、懐古の念を抱く人もいるでしょう。そのコッペパンには、こうした歴史があったのですね。

取材協力:『公益財団法人 埼玉県学校給食会』

http://www.saigaku.or.jp/

(中田ボンベ@dcp)
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