0
0.0(0人が評価)
2012.11.25
0
0.0(0人が評価)
2012.11.25
日本人なら誰もが名前を知っている作家の一人・太宰治。今回は、太宰治研究者である斎藤理生先生に、太宰治の作家人生中期~後期にかけての文章から、恋愛にまつわる名言を3つピックアップしてもらいました。太宰治は「恋愛」というものをどのように捉え、言葉にしていったのでしょうか? まずは有名な悲劇・シェークスピア作『ハムレット』のパロディから。
オフィリヤ「人は、本当に愛していれば、 かえって愛の言葉など白々しくて言いたくなくなるものでございます」
ハムレット「好きと口に出して言う事は、恥ずかしい。それは誰だって恥ずかしい。けれども、その恥ずかしさに眼をつぶって、怒濤に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、愛情の実体があるのだ」(『新ハムレット』1941年)
「女は、自分の胸の内にある愛情を、出来合いの言葉に変換してしまうと、本当の気持ちから離れていく気がすると彼に伝えています。そして男は、『もしかしてうまく届かないかも知れないけれど、相手とつながりたい、と思って差し出すこと。それは、言葉であっても愛であっても同じではないのか?』と発言し、『口にできないのなら、その程度の愛でしかない』と議論している部分です」(斎藤理生先生)
たしかに、その人の気質や価値観によってどちらに賛同するか意見が変わってきそうですね。この2人の会話から簡単に愛の言葉を囁く男性に対して、女性が怒っている状況がありありと浮かんできます。
「そうですね。どちらの意見も正論で、根拠がある気がします。とはいえ、恋人同士がこうした議論をせざるを得なくなる状況に陥ることは、あまり幸福ではないのかも知れません。太宰は両方の意見を書き留めるのみで、あえて結論を出していません。そこに、読者に考えさせる意図があると思えます」(同)
「この小説も前述の『新ハムレット』と同じくパロディで、おとぎ話の『カチカチ山』が、たぬき=もてない中年男/うさぎ=16歳の美少女、という設定で作り替えられています。たぬきはうさぎを好きになりますが、うさぎは迷惑なので、たぬきをだまし、最後には殺してしまいます。『惚れたが悪いか』は、狸の死に際の一言。この作品で太宰は『相手に受け入れられなくても、好きになってしまう気持ちがある。それは罪なのだろうか』と問いています。男女の性差よりも、モテ/非モテによって読後感がちがう小説かもしれませんね」(同)
なるほど、これは永遠のテーマですね。しかも深いテーマを喜劇の中に落とし込んでいるところに太宰治の意図を感じさせますね。
「最後は作品ではなく、太宰が戦争の疎開中に、愛人の太田静子(『斜陽』のモデル)に宛てたラブレターから。『いつも思っています』と大胆な書き出しで始まり、いったん身の回りの話へ逸れます。ところが最後に突然、この思いの詰まったような告白がされるという、にくい構成になっています。最後の『コヒシイ』というカタカナ書きの言葉が、つい洩れてしまった本音のようで甘酸っぱいですね。工夫が凝らされた、作家らしい恋文の構成だと思いませんか?」(同)
愛やコミュニケーションの表現を突き詰めて考えた高尚な作家も、恋人に当てる手紙には、作家らしい構成でありながら溢れ出るような恋心を素直に吐露したと考えると、なんだかいじらしい気持ちになってきますね。
今でも私たちの人生や恋愛観に教訓を与えてくれる太宰治の名言。皆さんの心に響く言葉はありましたか?
(冨手公嘉/verb)
0comments