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2012.07.04
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大好きな彼がもし、他の女の子と仲良くしていたら? 嫉妬心が湧いた顔なんて誰にも見せたくはないもの。雑誌のマニュアル特集にはよく「ヤキモチは可愛く見せろ」なんて書いてあるけれど、「可愛く見せられる程度ではすまないの! 」というのが女性の本音なのでは? これがもし、浮気も二股も当たり前の時代……一夫多妻制の平安時代だったら?
そこで今回は、「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱の母(以下、道綱の母)のエピソードをご紹介。『乙女の日本史 文学編』(実業之日本社)の著者、堀江宏樹先生に、一夫多妻制の平安時代に生きた女性の苦悩についてお伺いします。
先生、彼女はどんな人なのですか?
「道綱の母は、藤原兼家の第二婦人であり、歌人でした。『日本三大美人』と評されるほどの美女だったようで、出身は中流貴族の家柄。夫の兼家は当時としてはとても珍しい恋愛結婚派で、自分より身分の低い女性とばかり、『好きだ』という理由だけで結婚していたのです。ちなみに正妻以外は名前が残らないので、彼女の本名は分かっていません」(堀江先生)
では、道綱の母の嫉妬エピソードを教えてください。
「彼女が嫉妬する相手は兼家の正妻・時姫。彼女は、かの権力者・藤原道長を産んだ人でもあり、道長の他にたくさんの女子を産んでいます。出世頭である男子と、政略結婚をさせられる女子を産んだわけですから、当時の価値観ではかなり理想的な母です。
さらにこのころは、子どもが多ければ多いほど『前世から二人が結ばれていた証』と考える風潮がありました。一方、道綱の母は一人しか産んでいない。それがコンプレックスとなり、時姫に対する大きな嫉妬の種になっていったわけです」(同)
正妻であり、子だくさん。道綱の母からしたら、「勝ち目がない」という感じだったのかも。
「このほかにも、兼家は高級娼婦らしい『町の小路の女』という若い女性と恋愛をしていた時期がありました。このとき道綱の母は、人を雇って尾行させ、二人の様子に一喜一憂しては嫉妬の炎を燃やします。『町の小路の女』にできた子どもが亡くなってしまったときには『すっきりした! 』なんて蜻蛉日記に書いているほど。性愛的に男を引きつけるパワーがある『町の小路の女』に、女性としての自尊心を傷つけられたのでしょう。
さらには自分自身が第二婦人なのに、『浮気されている妻同士仲良くしましょう』と、正妻の時姫に手紙を送っていますからね(笑)」(同)
現代の感覚からするとびっくり。これでは、兼家には相当嫌われたのではないですか? 肝心の兼家との仲はどうだったのでしょう?
「『出家したい』と言い出して寺に入ってみたり、兼家が家に来てもわざと追い返したりと、あの手この手で気を引こうとします。今の恋愛マニュアルから見ればほとんどNGなことばかりですね。兼家はほかにもたくさんの愛人がいましたが、どの女性もないがしろにする人ではなかったので、道綱の母は嫉妬してもしつくせなかったでしょう。
ただ、一人ひとりをオンリーワンとして愛せた希有な男性ですから、道綱の母にも愛情深く接したはずです。事実、彼女のもとにもかなり通っていますからね。彼女はかなり愛されていたようですよ」(同)
これだけ嫉妬をぶつけても、相手が離れていかないなんて。彼が離れていくのを恐れて何も言えないでいる女性にとっては、貴重なエピソードかもしれません。
「兼家と道綱の母には、生の感情をぶつけても続くほどの愛情と、相性の良さがあったのでしょうね。お互いの感情を許し合える関係を築けた二人なのかもしれません」(同)
ヤキモチを妬いてかっこわるいところを見せるくらいなら、彼に重いと思われるくらいなら、舌を噛んででも我慢する。なるべく生の感情をコントロールするのが現代の恋愛における処世術のような気もします。一方で、嫉妬やけんかも恋愛の起伏として受け止め合えるほど、懐の深い、情熱的な恋愛ができたら……。果たして、道綱の母のように苦しくも一人を愛し続ける生き方は幸せなのか、不幸なのか。あなたはどう思いますか?
(小野田弥恵/プレスラボ)
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